祖母は小さい私の手をひいて、親戚の営むスーパーマーケットに時々連れて行ってくれた。私はそこで、覚えたてのお菓子「梅味のガム」を買ってもらえるのが楽しみだった。
ある日、その店の店主であるおじさんが買い物中の祖母と私に「いらっしゃい」などと声をかけてきて、店で売られていた車を模したオモチャを私に見せて、「好きなのを持っていっていいよ」と言った。祖母は、そんなことをしてくれるなと激しく遠慮したが、店主のおじさんは「いいから、いいから」と私に車のオモチャを勧めた。私は車のオモチャを欲しいと思わなかったが、店主のおじさんの「期待」の様な圧を感じ、「これ」と適当なものを指さして、その車のオモチャをもらった。
3才か4才の子どもの時分である。店主のおじさんの「喜ぶだろう」という期待を一身に感じ、その期待に応えた。「いらない」とは言わなかった。
子どもは正直、というのは大人の幻想だ。
大人に嫌われないように、大人の気分を害さぬように、懸命に振る舞ってみせることもある。
もし、じつの父や母に、幼少の時からこんな気の使い方してたら、それは地獄の始まりだ…
家に帰って、幼少の私はその車のオモチャで遊んだ。面白くはなかった。車酔いの激しかった私は車は好きではなかった。それでも遊んだ。その時の戸惑い気持ちは、何故か今でもありありと覚えている。
あの時の「正直な気持ちを抑える感覚」は、大人になっても残っている。
大げさに言えば「正直さが許されないような空気」は、日常的にどこにでもあるし、当時その店主は、来店した親戚の私たちに心からのサービスをしてくれただけで、悪意なんてイチミリも無かった。そこにじわりとコワさを感じる。
気の強い子なら、「くるま、きらい」と言えたかも知れない。おとなしい内弁慶の小さなわたしには、「ノーサンキュー」を言う発想は無く、大人の作った場の空気に流されるだけだった。
これは、幼少時の「ちょっとしたエピソード」だけれど、すごく大事な感覚だから書きとめておこうと思う。