ずいぶん前の話だが、個展の最中、画廊に来てくれた友人のお子さんが、私の作品を叩いた。
悪戯で叩いたのではなく、激しい怒りでもって思い切り叩いていた。
未就学児の子どもだから、こんな場合は近くに寄って、「これは私が描いた作品です。皆に見てもらうために飾ってあります。触ったり、叩いたりしては絶対にいけません」と、作品を叩いた手を握りしめ、しっかり目を見て、優しく諭すのが大人の振る舞いだろうし、お互いの為だったのだろうけど、私はそれが出来ずに、ただ固まった。
言葉が出なかった。
身体も動かなかった。
母親である友人は「直チャンごめん」と私に謝ってくれたけど、その時の私はたぶん固まったままだったと思う。
その子がとても不機嫌であることは、画廊に入ってきた時すぐ分かった。
その子がママと一緒に居たくて、一生懸命ママについてきて、どんな気持ちでここまで来たかと想像すると、何も言えなかった。
と同時に、作品を叩かれたことに激しい怒りを覚えたのも事実。
その怒りの表現にフタをするために固まった、というのが本当のところかもしれない。わからない。
例え小さな子でも、機嫌が良かろうがわるかろうが、どんな事情があろうが、画廊で作品を傷つける行為に、私はちゃんと注意しなきゃいけなかった。どんな反応をされたとしても。お互いのために。注意しなかったことを反省している。
…という正しさは、時に空虚だ。
私はその小さな子の頬を引っ叩き返したい。
バン!と音が鳴るくらいの力加減で。
この本音の感情こそ本物で、私は私の暴力性に固まるしかない。
リアリティとはこういうことだと思う。
いつかその子は、誰かの作品に「心」をぶん殴られるような体験をするだろう。
美術でも音楽でも、そういう作品に出会ってもらいたいし、私もそれくらいエネルギーのある作品を描きたい。