何事にもストーリーがあって、生きたぶんだけ伏線が生まれ、それを回収するかのように人生のストーリーもダイナミックになってくる。
過去にもあったような事が再来して、あの時よりマシな対応が出来ると、ゲームに勝ったような気持ちになる。
何事にもストーリーがあって、生きたぶんだけ伏線が生まれ、それを回収するかのように人生のストーリーもダイナミックになってくる。
過去にもあったような事が再来して、あの時よりマシな対応が出来ると、ゲームに勝ったような気持ちになる。
去年の春先に身体を壊して、この一年、身体のメンテナンスにずいぶんお金と時間を費やした。
西洋医学の医者の先生にはまったく信じてもらえなかったが、漢方や整体でずいぶん治癒された。
「もうひと押し」と思い立ち、よもぎ蒸しサロンに行ってみた。女性専用のサウナのような施設。
これが効いた。トドメの一撃とばかりに、なんかいい感じになってきた。
この一年、微細な心身の変化を観察してきた。
身体も精神も必ず変化する。
老いるとか、そんな単純な話ではなく、深くもなり、浅くもなれる。
少しは強くなったかも知れない。
最近、年配の方と接する機会が多くなったなと思っていたけれど、お世話になってきた方々が、いよいよ高齢者や初老の領域に突入してきたのだ。私が20代の頃お世話になった現役世代の大人の方々が、70代とか80代になっているのだから驚きだ。
その方々は、「おじいちゃん」にも「おばあちゃん」にもならず、活躍していた時分の気分のまま、その時の肩書きのまま、パワフルに歳をとっている。
当時のことを延々と細やかに話してくれる。
人生で一番輝いて活躍していた時期が、その人にとってのセルフイメージになっている。
社会で成功し、活躍した過去がある人ほど、肩書きや地位や栄光は、なかなか手放せるものでは無いのだろうなと、見ていて思う。
何者でもないじぶんに耐えきれない気持ち。私も、画家であることで私を保っていられる。何者でもなかったら、人生迷子。その肩書きに見合う日々の「しごと」をまっとうしているうちは、絵描きを名乗りたい。看板だけ掲げて中身が無かったら、空虚に過ごすしかないけれど。
本当は何者でもないのに、何者かであろうとするのは疲れる。無理がある。エネルギーを消耗する。
今のあるがままを受け入れることの困難さ。
何者でも無い,まっさらな自分を受け入れたら、きっと爽快だろう。
そう考えると、何者でもない、ただの爺さんでありつづける義父は、最強かもしれない。
ずいぶん前の話だが、個展の最中、画廊に来てくれた友人のお子さんが、私の作品を叩いた。
悪戯で叩いたのではなく、激しい怒りでもって思い切り叩いていた。
未就学児の子どもだから、こんな場合は近くに寄って、「これは私が描いた作品です。皆に見てもらうために飾ってあります。触ったり、叩いたりしては絶対にいけません」と、作品を叩いた手を握りしめ、しっかり目を見て、優しく諭すのが大人の振る舞いだろうし、お互いの為だったのだろうけど、私はそれが出来ずに、ただ固まった。
言葉が出なかった。
身体も動かなかった。
母親である友人は「直チャンごめん」と私に謝ってくれたけど、その時の私はたぶん固まったままだったと思う。
その子がとても不機嫌であることは、画廊に入ってきた時すぐ分かった。
その子がママと一緒に居たくて、一生懸命ママについてきて、どんな気持ちでここまで来たかと想像すると、何も言えなかった。
と同時に、作品を叩かれたことに激しい怒りを覚えたのも事実。
その怒りの表現にフタをするために固まった、というのが本当のところかもしれない。わからない。
例え小さな子でも、機嫌が良かろうがわるかろうが、どんな事情があろうが、画廊で作品を傷つける行為に、私はちゃんと注意しなきゃいけなかった。どんな反応をされたとしても。お互いのために。注意しなかったことを反省している。
…という正しさは、時に空虚だ。
私はその小さな子の頬を引っ叩き返したい。
バン!と音が鳴るくらいの力加減で。
この本音の感情こそ本物で、私は私の暴力性に固まるしかない。
リアリティとはこういうことだと思う。
いつかその子は、誰かの作品に「心」をぶん殴られるような体験をするだろう。
美術でも音楽でも、そういう作品に出会ってもらいたいし、私もそれくらいエネルギーのある作品を描きたい。
作品は私の意識を超えたところにある。
私の無意識が反映されている。
無意識は、よほど注意深く観察し洞察しなければ、気付かない。見えてこない。
無意識を意識化していく作業。
それは私の本質、私の作品の本質を探っていく作業。
ひとと雑談していると、作品の輪郭が浮かび上がってくることがある。あれこれひとりで考えるより、その方が本質に近づけることがある。
何を描いているのか?
何を表現しているのか?
常に問い続けないと、見失う。
見失ったまま、ぼんやり楽しく終わってしまうこともある。
それでいいと言うひともいる。
その体験をして、はじめて誰かの気持ちが分かる…
私たちには想像力が備わっているはずだけれど、
身をもって体験してはじめて、誰かの悲しみや葛藤や喜びを腹で理解する。
何年もの時を経て、ブーメランは返ってくる。
思わぬ所で、誰かの気持ちを理解することがある。
その時私は広くなる。
エゴサしましたら、門倉の個展について書いてくださったブログ記事を発見しました。
その内容は、わたくしにとってはあまり気分の良いものではありませんでしたが、それでも色んな感性、色々な視点でもって作品を観て頂けるのは有り難く、作品が広がることに祝砲をあげたいような気持ちです。
しかしながら、作家の意図とはまるで遠い解釈をされてしまうと、そこに少なからず葛藤を覚えます。「チガウ!こういう見方をしてよ、よく作品を読んでよ…!」と…。
けど、それは作家のエゴ。作品を理解してもらうためにここで躍起になるのは、賢明とは思えません。
たとえ「読み違い」をされてしまっても、誰かの感性をコントロールすることは出来ないのです。作品は、観てくださるその人の眼と感性と知性に委ねるほかないのです。
あらゆる視点でもって、作品の本質を問うてもらうこと。
これは作品の宿命です。
花は一瞬にして咲くのではない
花は一筋に咲くのだ
知り合いの元編集者の方から頂いた坂村真民の言葉を心に塗って、制作に励むとしましょう。
がんばります。
先日、3回目のワクチン接種をしてきました。
1,2回目ともに微熱程度で済んでいたのが、今回は38度台の発熱があり、さすがに寝込みました。
こんな時は日常を離れ、いつもと異なる感覚、非日常を否応無く味わうことになります。
精神だけ小旅行しているような。
夕刻になっても、鉛のように重い体はベッドに沈みっぱなし。何も出来ないまま、ブルーグレー色の薄暗い天井をぼんやり見つめていたら、ふと、ひとはその人の世界観の中で生きて、死んでいくんだろうな、という考えが頭に浮かんできました。
現実がどうであろうが、ひとはその人の世界観の中を生きている…
その世界観にどっぷり浸かったり、誰かを巻き込んだり、立ち入れさせなかったり、
同じ空間に居ながら、まったく異なる世界を持って生きているという事もある。
わたしは私を少し遠い位置から眺めて、私の世界観は何色か…いったいどんな世界を生きているのか。熱が引くまで…と、渦中では分からないそれを目を瞑り観察することにしました。
翌日には熱はすっかり引いていました。