先日、ある美術展のチケットを貰ったので、行ってきました。
その作家の作品は、他でも何度も見ていて、
図録も何冊が持っていたので、
今回は気楽に観るつもりで行ったら、
結構混んでいて、
結果「ただ見物に来ました」みたいな鑑賞をしてしまいました。
作品と作品を観ているお客さんを観ている、
という状態になってしまい、
「作品と作品を観ているお客さん」を観ていたら、
すっごく変な感覚になってきて
(頭が)
私は、素晴らしい作品を観ているのではなく、
「素晴らしい作品という概念」を観ているのか?
という感覚になってしまいました。
(↑…解って頂けますでしょうか…?)
作品は素晴らしいに違いない。
だけど、「素晴らしい作品」を観たいのではなく、
作品そのものを観たい。
ただその作品と対峙したい。
言葉で色を付ける前の作品。
素晴らしいもヤバイも、
賞賛の色さえ付けないで作品を観る感覚を保ちたい、
と思いました。
(文脈、とかは、また別の話)
最近、
言葉にしない訓練をしています。
例えば美しいものを見た時。
「きれい」とか「桜だ〜」とか言わない。
かわいいものを見た時。
「かわいい〜」とか「あ、猫」とか言わない。
好ましくないものを見た時も同じく。
ただ観て感じる。
↑これ、気持ちいいのです。
「それ」が鮮度をもって迫ってくるのです。
感動が増すのです。
(この感覚、解って頂けますでしょうか…?)