2025/03/28

けん玉探しの旅

 

桜も咲き始める平日の午後だ。

東京駅近くの交差点で、

道に迷うお婆ちゃまと 

小学校1年生くらいの男の子を見かけた。

お婆ちゃまは立派なスマホを持っていた。

「ばば、ナビ」

お孫さんと思しきその男の子は、

歩き疲れた様子で、

ばばにスマホのナビで道を調べるよう

促していた。

お婆ちゃまは背中を丸めてスマホを凝視するが、

その姿は心細く、

大都会の交差点で

ばばと孫は完璧な迷子になってしまっていた。


お婆ちゃまは

自転車で横を通り過ぎる男性に

「すみません…!」と

道を聞こうと声をかけていたが、

自転車はサーっと走り去ってしまった。

(そりゃそうだ)


さて声を掛けようか…

私が迷っていたら、

若いサラリーマンの男性が、

「どうされました、」

と颯爽とお婆ちゃまに声かけして、

スマホで場所を調べて差し上げた。


私は直ぐに声掛け出来なかったことを

恥じて、

その若いサラリーマン男性の

行動力と優しさに

心の中で頭を下げた。


私はしばらくの間、

その3人のやりとりを横目で見ていた。

お婆ちゃまは銀座に行きたいようだ。


中央通りを真っ直ぐ歩けば銀座なのだが、

どうもお婆ちゃまが要領を得ない。

若いサラリーマンの男性も、

調べながらちょっと困った様子。

若いサラリーマンの男性は

会社のネームタグを首からさげていて

仕事中なのだろう。


いよいよ私は

知らんカオできない圧を自分の中に感じた。


「あのー、銀座でしたら私もこれから向かいますので、途中までご案内しましょうか?」

その時私は、

八丁堀の画廊に

作品を納品しに行く途中だった。

十数点の紙作品と

4号のパネル数枚を抱えていた。


八丁堀と銀座は、

現在地からだと逆方向なのだけれど、

約束の時間まで時間がたっぷりとあった。


若いサラリーマンの男性は

少しホッとした表情を見せたので、

私も少しほっとした。

声掛けしてよかった。


お婆ちゃまは銀座のおもちゃ屋に行くのだと言う。

しかも6丁目…と。


「もしかして博品館⁈

ここからだとけっこう歩きますね…

とりあえず途中までお連れしますね」


(後で調べたら博品館は8丁目であった)


若いサラリーマンの男性は、

安堵と心配の入り混じる表情をして、

笑顔で会釈し別れた。


お婆ちゃまと男の子は私の預かりとなった。


さて、

お連れする、と言ったものの、

博品館まで歩く?

タクシーか…


お婆ちゃまは、宝町から来た言う。


昔、銀座におもちゃ屋があってね…

なんとなく銀座に出てくればあると思って…

さっきモンベルで買い物してて

モンベルの会員で


お婆ちゃまのリュックは、

確かにモンベルだった。

淡い辛子色のまだ新しいリュックだった。


宝町から京橋、

京橋から銀座に向かうはずが東京駅…


かなり歩いたのだろう。


お婆ちゃまは何かよそよそしく、

焦っている様子だった。


男の子は歩き疲れているはずだが、

私が「大丈夫?疲れた?」と聞いたら、

首をヨコに振り、スキップしてみせた。


お婆ちゃまは男の子のために

「けん玉」を買いに行くと言う。

けん玉?

博品館にけん玉はあるだろうか…?

キャラクターグッズならたくさんあった気がしたが…


博品館まで行かずとも、

その手前のハンズなら

けん玉はあるかも?


「博品館まで行かずに、

その手前のハンズなら

けん玉があるかもしれないです。

調べますね」


スマホに入っていたハンズのアプリで

銀座店の在庫を調べた。

あっさり「在庫無し」と出た。


「ハンズにけん玉の在庫は無いみたい。

ネットで買ったほうが早いかもね…」

私は何気なく、

味気ない解決法を口にしてしまった。


「ネットなら、パパとママでも買えるね」

お婆ちゃまは

ベンチに座りこむ男の子にそう言った。


さて、まだ博品館を目指すのか…

お婆ちゃまと男の子にとって

8丁目は容易な距離ではない。

タクシーか…


ふと映画「バベル」のワンシーンを思い出した。

使用人の高齢女性が、

雇い主の金持ちの子どもらと、

国境沿いをさまよい歩く羽目になってしまった

心細いシーン…



「ところで、春日町にはどう行けばいいですか?」


春日町⁈

文京区のほう?


お婆ちゃまの進路変更に

私は少し面食らった。


息子が警察官で、

今日は夜勤明けで

待ち合わせしている。


え?どこで待ち合わせされてます?


地下鉄〇〇駅か△△駅の…


どうやらけん玉は諦めて、

息子さん(坊やのお父さんかおじさん)の所に行くことになったようだ。


私たちの3人歩みは

まだ京橋駅の手前だった。


「調べますねー

ちょっと落ち着いて待ってねー」


JRのアプリで乗り換えを調べたら、

あっさりでてきた。


「この直ぐ近くの京橋駅から乗って、

銀座駅で乗り換え。

銀座駅で降りたら00線で…

そしたら駅員さんに聞いてくださいねー」


銀座駅の広さと混雑、

分かりにくさが頭をよぎった。


少し歩いたら、

京橋駅の入り口が見えてきた。

地下鉄乗り場のマークを見つけて、

お婆ちゃまはホッとした様子だった。 


「お気をつけて〜」


お婆ちゃまは、

何事も無かったかのように、

よかったよかったと、

そそくさとメトロのマークに吸い込まれていった。


男の子だけ、2回振り返り、

小さく私に「バイバイ」してくれた。



お婆ちゃまは何か焦っていた。

「当てずっぽう」に銀座に出てきたものの、

想像以上に歩いて道に迷い、

おもちゃ屋は遠く…


銀座の様子が、距離感とか、

自分のイメージと変わってしまっていて

焦り、怖くなったのかもしれない。


(しかもよくわからない中年女に道案内され…)



後から回想すると、

お婆ちゃまは、

「お婆ちゃまが、銀座で、

孫にけん玉を買ってあげたかった」

のだろう。


「ネットで買った方が早い」などと、

私はお婆ちゃまのささやかな夢を壊してしまった。

そして、お婆ちゃまの面子を潰してしまったのかもしれない。


やはりタクシーで博品館まで

キッチリ案内するのが筋だったか…


いやー

坊やの体力を思うと、

おもちゃ屋は諦めて

(諦めさせて)

正解だったのかな。

などと、

自分の判断を正当化したくなった。


そしてなんだか

申し訳ないが楽しかった。



私は八丁堀の画廊に

作品を届ける途中だった。

この時、小脇に抱えていた

いくつかの作品は

初夏に開催する個展でご覧頂けます。


2025/02/23

花の街シリーズ


 2018年頃から発表していました
『姉さんと私』というシリーズ作品を
『花の街シリーズ』と改題しまして、
2025年から制作を再開しました。
花街を舞台に、
十干十二支から着想を得て描く
「花の街シリーズ」では、

その閉ざされた場所で生きる花魁や禿たち、
仕事をする女性たちの日常を
物語として表現しています。

六十花甲子ですから、
60作品を描く想定でいます。
この連作の一部を5月の個展で発表する予定です。
たくさんの人に楽しんで頂けたらと思います。


2025/01/03

不確実

 絵画は不確実で

決まりが無く、

「どういう訳か出来上がってしまう」

くらいの感覚があったほうが

作品として上手くいっている気がする。 

商品としては扱いにくいけれど。


「絵画する」という感覚は、

微かな、けど掴んだ手答えのある肝で

譲れないところなのだと思う。


正月は忙しいなぁ、


今年もよろしくお願いします

2024/12/03

一村を思う

 「きっとカドクラは "こういう絵を描きたいー”と言うと思うよ」


高校生のころ

美術部の先生に勧められて

田中一村の図録を本屋で購入しました。

先生がとても熱心に勧めてくださったものだから、

私も図録を見て勉強したのだけど、

ちょっとピンと来なくて。


伊勢エビのデッサンに心を打たれたのは確かな感覚なのだけど、

掴みきれないしっくり来ないものも同時に感じていました。


ストレートに感動したい。

なのに頭の中には薄いグレーの?マークがゆるく浮かぶ…

きっと本質に迫れてなかったのでしょう。


先生の指導が嬉しくて、

けど先生が言わんとしたことを腹で理解してなくてなのに、

…わかったようなふりをしてしまった18才でした。

(図録だけだったからね…使う画材も違う描く対象も違う。もっと質問すればよかったな)


時は今、

駆け込みで見に行った

上野の田中一村展は、

案の定しっくり来ない何かの追体験と同時に

絵を描いてきた私なりの、

私の立ち位置からの発見もありました。


晩年の作品群の

あのエモーショナルな躍動感は

本人の意思とは別の次元で「そうなってしまった」のではないかしら。


作品がある次元に到達する奇跡は、

本人でさえじつは説明がつかないのでは。


作品の変化、

ブレイクスルーの正体は何なのか。

絵描きは何を見たのかしら。

一村の残した言葉に

あ、ちょっとその感覚わかるかも…と

共感もします。

けど、

画家の生き様や晩年の傑作、

この一連の「物語」が完璧過ぎているようにも思えて


清貧、

生真面目、

清潔、

純粋性…

とても真似できるような次元ではなく、


これこそがしっくりこない理由かも知れない。

無意識に拒絶したくなるような…


掃除の行き届いた古い畳のような心持ちで会場を後にしました。



それにしても、

しんじゃってからこんなに騒がれてもなあ…

と入場の長い列に並びながら

しみじみ感じ入った秋の夕暮れの、

無粋なわたし、

でした。

2024/09/09

雑記

 ことばに出すのは恐しいが、

「時代は変わってしまった」という

しみじみとした感覚がある。

これを肌で感じるのはとても恐ろしい事だが、

これを越えなければ次に行けない。


騒がず、淡々と描いていくということ。

誰かにお伺いを立てないこと。


私が夢中になって描いてきたことは何だったのか、振り返って、その虚しさを感じることは怖い。


白状すると、売ることばかりに気を取られていた時期もある。

売約の数に一喜一憂し…ちょっと情け無い。


作品には、その時々の感情を込めてきた。

粗削りのどうしようもない若さや生々しさ、

それらが今も絵の中で生きているなら、

その作品は良品としよう。


時流にばかり敏感になり、

作品の肝を見失うなら、

いったい何のための絵画なのか。


時代が変わっても、

ひとを芯から喜ばせる作品で在りたい。

作品は好ましい存在でありたい。

ささやかだが、壮大な願いです。