2024/12/03

一村を思う

 「きっとカドクラは "こういう絵を描きたいー”と言うと思うよ」


高校生のころ

美術部の先生に勧められて

田中一村の図録を本屋で購入しました。

先生がとても熱心に勧めてくださったものだから、

私も図録を見て勉強したのだけど、

ちょっとピンと来なくて。


伊勢エビのデッサンに心を打たれたのは確かな感覚なのだけど、

掴みきれないしっくり来ないものも同時に感じていました。


ストレートに感動したい。

なのに頭の中には薄いグレーの?マークがゆるく浮かぶ…

きっと本質に迫れてなかったのでしょう。


先生の指導が嬉しくて、

けど先生が言わんとしたことを腹で理解してなくてなのに、

…わかったようなふりをしてしまった18才でした。

(図録だけだったからね…使う画材も違う描く対象も違う。もっと質問すればよかったな)


時は今、

駆け込みで見に行った

上野の田中一村展は、

案の定しっくり来ない何かの追体験と同時に

絵を描いてきた私なりの、

私の立ち位置からの発見もありました。


晩年の作品群の

あのエモーショナルな躍動感は

本人の意思とは別の次元で「そうなってしまった」のではないかしら。


作品がある次元に到達する奇跡は、

本人でさえじつは説明がつかないのでは。


作品の変化、

ブレイクスルーの正体は何なのか。

絵描きは何を見たのかしら。

一村の残した言葉に

あ、ちょっとその感覚わかるかも…と

共感もします。

けど、

画家の生き様や晩年の傑作、

この一連の「物語」が完璧過ぎているようにも思えて


清貧、

生真面目、

清潔、

純粋性…

とても真似できるような次元ではなく、


これこそがしっくりこない理由かも知れない。

無意識に拒絶したくなるような…


掃除の行き届いた古い畳のような心持ちで会場を後にしました。



それにしても、

しんじゃってからこんなに騒がれてもなあ…

と入場の長い列に並びながら

しみじみ感じ入った秋の夕暮れの、

無粋なわたし、

でした。