2021/10/22

楽しみに思う

 また子どもの頃の話を書いてしまいます。

家には組み立て式の滑り台があって、ある時期までは家の中で、ある時からは、庭の芝生の所に、祖父がその滑り台を設置してくれて、遊んでいました。小さくても家に滑り台があるのは、気分の上がることでした。組み立て式なので、滑り台はいつの間にか祖父によってしまわれていることもしばしばでした。

ある夜、布団に入って寝ようかという時に、

「そうだ、明日は滑り台であそぼう、おじいちゃんに滑り台を出してもらおう」と、ふと思い付き、枕元に置いていたメモ帳に覚えたての字で「すべりだい」と書いて、それはそれはワクワクとした気持ちで、明日の滑り台のことを思いながら、しあわせな気分で眠りにつきました。

その翌日、滑り台で遊んだかどうかは…さっぱり記憶が無いのですが、

つい昨夜、制作していて、「明日はどう筆を入れていこう…楽しみだ」と、煮詰まっている作品にもかかわらず、明日の制作を楽しみにするじぶんに気付き、ちょっとそれが嬉しかったのです。制作を素直に楽しみに思えるのだ…それでふと、翌日の滑り台を楽しみにした幼少の時を思い出しました。

夜更かしして制作するのは躊躇われ、筆を置き、床につき目を閉じて、仕上がっていく作品を想像しながら、ほんの少ししあわせな気分で眠りにつきました。




2021/10/19

幻想のわたくし

 じぶん自身のイメージさえ、幻想かも知れない。

この大きな舞台で、何者かを演じるわたくし。

演劇性から滲む真実。虚と実。

けど、どちらがどちらか、じつはわからない。

子どもと大人

 祖母は小さい私の手をひいて、親戚の営むスーパーマーケットに時々連れて行ってくれた。私はそこで、覚えたてのお菓子「梅味のガム」を買ってもらえるのが楽しみだった。

ある日、その店の店主であるおじさんが買い物中の祖母と私に「いらっしゃい」などと声をかけてきて、店で売られていた車を模したオモチャを私に見せて、「好きなのを持っていっていいよ」と言った。祖母は、そんなことをしてくれるなと激しく遠慮したが、店主のおじさんは「いいから、いいから」と私に車のオモチャを勧めた。私は車のオモチャを欲しいと思わなかったが、店主のおじさんの「期待」の様な圧を感じ、「これ」と適当なものを指さして、その車のオモチャをもらった。

3才か4才の子どもの時分である。店主のおじさんの「喜ぶだろう」という期待を一身に感じ、その期待に応えた。「いらない」とは言わなかった。

子どもは正直、というのは大人の幻想だ。

大人に嫌われないように、大人の気分を害さぬように、懸命に振る舞ってみせることもある。

もし、じつの父や母に、幼少の時からこんな気の使い方してたら、それは地獄の始まりだ…

家に帰って、幼少の私はその車のオモチャで遊んだ。面白くはなかった。車酔いの激しかった私は車は好きではなかった。それでも遊んだ。その時の戸惑い気持ちは、何故か今でもありありと覚えている。

あの時の「正直な気持ちを抑える感覚」は、大人になっても残っている。

大げさに言えば「正直さが許されないような空気」は、日常的にどこにでもあるし、当時その店主は、来店した親戚の私たちに心からのサービスをしてくれただけで、悪意なんてイチミリも無かった。そこにじわりとコワさを感じる。

気の強い子なら、「くるま、きらい」と言えたかも知れない。おとなしい内弁慶の小さなわたしには、「ノーサンキュー」を言う発想は無く、大人の作った場の空気に流されるだけだった。

これは、幼少時の「ちょっとしたエピソード」だけれど、すごく大事な感覚だから書きとめておこうと思う。


2021/10/17

皇居近く

 東京ステーションギャラリーに行く前に、皇居近くを散歩しました。先輩に聞いた話では大手町辺りは大変なパワースポット?らしく、たしかに銀座の街中よりずっと清々しく感じられました。

日本中で姫君の結婚の行方が案じられ、私も関心を持つひとりです。その壮大なドラマの現場近くは、穏やかで清々しく、雲間から光が降り注いでいました。

次回はたっぷり時間を作ってゆっくり歩いてみたいと思いました。


銀座物語

 時々ですが、京橋の画廊羅針盤さんで手伝いをしています。それで時々、東京駅から銀座辺りをおつかいがてら歩いたりします。

先日、久々に銀座を歩いたら、何故か海外に来た様な奇妙な気分になりました。おしゃれなドでかいビルが奇妙に見え、何か違和感を覚えました。例えるなら、お芝居のセットの様です。私は台本を忘れてきてしまった役者のような心細さで歩きました。これまで感じたことのない感覚でした。

高級店が並ぶ街中を歩きながら、不用意に劣等感を刺激され、エネルギーを消耗しているのを感じました。

私は、ブランドの服で全身を固める知人を思い出していました。私はその知人に対して常々感じていた感情が、劣等感であったことにふと気付きました。

私はこの拭えぬような不快感に、長年悩まされていました。

その知人の、甲冑のような服の着こなしは、全く中身に見合わず滑稽に見えて、浅ましく、内心軽蔑さえしていました。人生かけて虚勢を張っているのがあからさまに伝わってきました。と同時に、ある種の羨ましさと劣等感を覚えるという複雑な感情を持っていました。

長年会っていない、これからも会うことは無いであろう知人に、こんな複雑な感情を持ち続けるなんて、まったくどうかしています。

もうウンザリするほどじゅうぶん味わった、

いい加減に断ち切ろう…小さく決意しました。


結局は、いつもの古い喫茶店にたどり着き、ここがいちばん落ち着く…とひと息つきました。新しい店を開拓するなどの冒険をしないことに失望しつつも、結局は気楽さを選択していることに気付きました。結局のところ、私は気楽で居たいのだな、と思い、柔らかい綿の肌着をまとうような気持ちで、コーヒーをすすりました。

…あの「甲冑の知人」は、「私の中にいる偽物」の象徴なんじゃないか。首根っこを掴んだところで、次の場所に向かいました。




2021/10/15

崖のふち

 わたくしのフィルターを通してでしか、この世界をみることはできない、

そんなことを考えていたら、とてつもなく恐ろしい気分になりました。

私は「この世界」を把握しているのだろうか…

私の生きる小さな世界で物事を推し測り、判断し、小さくまとまり…

逃がれられない何かを感じながらも、このわたくしを生きるしかない、

崖のふちにいるような気分です。

免罪符

 画家だから、

ということを様々な場面で免罪符にしていて、我ながらズルいな、と思います。

服を買うにも、コーヒーを飲むにも、

怒りを爆発させる時も。

あらゆる場面で。


画家だから許してください。

遠くの私はいつもそれを眺めています。

早いが今年を振り返る

 2021年は、1月に「寄り道」としての個展を開催しました。花魁とかむろの日常をテーマにした、水彩と色鉛筆による紙作品の展示でした。これは私にとってイレギュラーの展示でした。

そして、6月か7月に予定していたタブローの個展は開催しませんでした。そのことが一番きつかったです。

制作しているのに、発表出来ないつらさ…けれど、開催しないことを選択したのは私本人でした。

理由は、その画廊で個展をすることに、心が動かなくなっていたからです。これはもうだめだ、と思いました。ウソは付けませんでした。

私としてはかなり思い切った選択でした。

展示は作家の生命線ですから。

心が動かぬまま作品だけ預ければ、私は間違いなく、じぶんを軽蔑し、作家としての根っこが腐っていくような感覚に耐えられなかっただろうと…大げさではなく思います。

画廊さんには迷惑をかけてしまいましたが、画廊さんも薄々何かを感じていたのだと思います。

そんな時に渡りに船だったのか、安曇野の画廊さんからグループ展の話を頂いていたので、グループ展にちからを注ぐことにしました。個展が出来るくらいの作品を制作し、そこから9点選び発表しました。

安曇野では初の展示でしたので、代表作になりえるタブロー作品と、今までなら却下されるであろう作品を送りました。

安曇野の画廊は、雑誌の表紙絵を長年に渡り担当されている画家の成瀬さんがオーナーで、作品について助言を頂くことが出来ました。それはとても新鮮で、頭の中に、つつつ…と風が通るようでした。

本気で臨んだら、本気が伝わった。逆も然り。これはとても良い経験でした。

ちいさな大冒険ではありますが、私なりに清々しい気持ちがありました。

こうやって描いて行けばいいんだという手ごたえがありました。

今は、来春の個展に向けて、制作していて、とても有り難く思います。

わーっと、胸がスッとするような作品が描けたら最高です。

一見、コロナで足止めを食らったかのようで、じつは見詰めなければならない問題があぶり出されたような年でした。

くすぶっていることは、自ずと明るみになり、無視出来ないものだと痛感しています。

2021/10/13

映える

 サザコーヒーで抹茶カフェラテのホットを注文しました。いつもはブラックコーヒーですが、その日は何故か抹茶に目が行き、注文しました。

しばらくして運ばれてきた抹茶ラテを見て、私は思わず「え、すごい、これどうやって頂くんですか⁈」と店員さんに聴いてしまいました。

抹茶カフェラテは、大きな陶器の器に入っていて、例えるなら、これはけんちん汁をよそう時にちょうどいい器です。しかも、何とも可愛らしいクマの様なラテアートが施してあるではありませんか。

まさに映え。これぞ映え。

どうぞ撮ってくださいと言わんばかりの出立ちです。

店員さんは、そのままお召し上がりください、微糖になっております、と教えてくれました。

この可愛らしいクマの抹茶ラテを画像に撮って、Instagramにあげれば、私もいっぱしのインスタグラマーに成れるだろうに、私はそれをせずに「グニャリ」と、クマの顔を先ずは縦に混ぜ、タヌキのような妖怪のような画になって、もう一度「グニャリ」と今度は円を描くように混ぜ、もう何者でもなくなったのをまじまじと見て、飲み方これでいいのかな…と少し恐れながら、普通に飲み干しました。

Instagramやってます。

過去作から近作まで載せています。

よかったらのぞいてみてください。


ダンサー

 不思議なのですが、10代の頃に、何故かダンサーになりたいと思った時期がありました。

踊れないのにダンサー。正確には、ダンスを習いたい、だったのかも知れません。

20代、社会人になってからは、40代くらいになって時間ができたら、ベリーダンスを習いたい、と思っていました。

今その年齢になってみたら、時間はないし、例え時間があったとしても制作するか整体に行きたい。

本当にダンスしたかったら、時間が無くても踊るよな…

ユーチューブで、たまたま「ダンス甲子園」の映像を観て、やっぱりダンスする人たちに憧れるのでした。


そうは言っても日常

 目の前の作品を一点一点仕上げていこう、

当たり前のことですが、そういう地に足のついた考えが抜けて、大きなことをしようとする、困ったものです。


2021/10/08

デジタルチケット

 東京都現代美術館に行ってきました。

美術館に向かう木場公園の、あの大きな橋を渡る時は、今だに気分が上がります。

開催中の横尾忠則さんの展示は、とても人気の様で混んでいました。

情報量が多くて、消化し切れず、大げさでなく倒れそうになりました。

そして絵が上手い、絵の具の使い方からとても上手いと感じます。(この上手い、のニュアンス…伝わり難いですよね…毎日油彩をいじっている身として、本当に上手い人の絵を観ると、上手いなぁ!って感嘆してしまいます)

驚いたのは、横尾さんはうちの義父より年齢が上ということ…ウチの義父は生活において天才性を発揮し家族を翻弄させてくれますが、何か破茶滅茶な、通じるものを感じ、この世代独特のエネルギーかも?とも思いました。

(ほんと、浅い感想で…あしからず。)


それにしてもデジタルチケット。

スマホの電源が切れないかヒヤヒヤでした。


2021/10/07

人生の連立方程式

 人生が豪華二本立ての連立方程式なら、

画家としての人生と、心理学を深く学ぶ人生で、解を導き出したいと思います。

ひとを描くことと、心理について掘り下げること。

この解のヒントは…おそらく、

「ひとって愛おしいもんだよね、」という感慨です。

私はその視点を持って、ひとを描きたいと思います。


2021/10/06

渦中のひと

 

渦中にいると、客観性を失うものです。

そういう時は、違う視点を持つことが大事です。

生まれた時から、私は「わたくし」の渦中にありますので、

実の所、私は私が分からないでいます。

なぜ、繰り返し描き続けているのか?

私の作品の本質は何なのだろう…?など。

私は何を描いていると思う?

今さらながら、私自身への問い直しです。


我々は何者か?

ゴーギャンの問いがリアルに迫ってきます。

無意識を意識化するとき、わたくしの本質が見えてきます。

それは、都合の良くない場合もありますので、

何かとフタをしておきたいものなのです。





治ってしまう

 今年の春から飲み始めていた漢方薬がよく効いてくれて、日々の体調が良くなってきました。

治ってきた、有り難いなあ…!と思う反面、

(あぁ、もう、言い訳に使えないんだな)と

内心、心細く感じているじぶんもいました。


体調不良は、何かしら言い訳に出来ます。

信じがたいことですが、病気はメリットにもなっていました。

もっと白状しますと、私は「何か」を表現するために「病気」を利用したフシがありました。

(そう、こういう事は、しっぽり呑みながら話す内容です…)

ひとの心理の奥深さに感嘆します。

まるで心が宇宙に繋がっているような壮大なイメージです。

故に私は、「ひと」を描きたいと思うのです。







2021/10/05

身体感覚

 緊急事態宣言が明けて、流石に気が緩んでおります。

ワクチンの副反応はひどいもので、身体が何者かに乗っ取られたのではと錯覚するほどのツラい思いでしたから、それが抜けた時の開放感は、背中に羽が生えたような心持ちでした。

先日は久々に大きなショッピングモールを歩いてみましたが、まるで異国…違う星に来てしまったような感覚で、BGMに急かされ、物欲が刺激され、少し疲れました。消費、消費…とにかく私たちは消費せずにはいられないのだなぁと、疲れた頭でぼんやり考えました。

知り合いのお寿司屋さんに行き、身体が海になる…と錯覚するほど、美味しい海の幸を頂きました。海の記憶を内包する素材を頂けば、そう感じるのは必然で、私は普段くちにする食べ物について、やはり、ぼんやり考えました。

乗っ取られたり、羽が生えたり、海になったり…様々な身体感覚を味わう秋の始まりです。