2016/11/30

「気に入りの喫茶店が移転する」ただそれだけ。




今年のゴールデンウィーク頃から
足しげく通っていた喫茶店が移転することになり、
移転前に一度足を運ぶことにしました。

そこで頂く一杯のお茶に惚れてしまい、
他に用のない町で途中下車して、
散歩しながらその喫茶店に向かうのが
楽しみでした。

移転といっても、そう遠くない場所だし、
店が無くなってしまうわけではないし、
悲しむことはないのだけど、
この町で頂く最後の一杯を口にした時、
こみ上げるものがありました。

この店に初めて来たときの自分や
通い始めてしまった時の自分の姿が
頭の中で再生されました。

振り返ると、
「私、あのとき相当堪えていたんだ・・
自分では気づかなかったけど、
無意識に癒しを求めていたのだ」
ということにハタと気付いてしまい、
案外じぶんが弱かったことに愕然として、
泣きそうになりました。(半泣き)

くり返しますが、
店が移転するのが悲しくて
泣きそうになったのではなく、
自分が実は弱くて、癒しを求めて
ここにたどり着いたことに気付いてしまって、
泣きそうになりました。(半泣き)

決して喫茶店好きとかではなく、
ただこのお茶に癒されたかったのです。

きっと、芯から癒されない限り、
(言ってしまえば、内なる子どもが癒えない限り)、
ひたすら喫茶店に
癒しを求める旅を続けることになると。
そして何杯お茶を飲んだところで、
一時的に癒されたとしても、
心は解放されることはないのだと、
やり残している宿題を発見してしまいました。
(感情には時効がないのだそうです)

宿題のことを思い出したら、
今ちょっとだけ内側から癒されている気がします。
やさしい気持ちで居るというか。

そして、
(不思議なんですが、)
誰かの弱さやダメさやわがままを目の当たりにした時、
「この人は私自身だ」ということが、
明確に腑に落ちました。
(この感覚、すっごく不思議で、
森羅万象の神秘を感じるのですが、
まったくもって上手く言葉にできません!)

ひとにやさしくすると、
やさしくした自分自身が一番
奥のほうで癒され、
エネルギーを沸かしているのかも知れません。


表面上は、「気に入りの喫茶店が移転する」、
それだけなのに、
私の内側では、ドラマチックな感情の発見がありました。

大事なことは目には見えない、
サン・テグジュペリの言う通りに。